むらさき

昨日の夜、窓を開けっ放しのまま寝てしまったのが効いて今は風邪をひいて寝込んでいる。良くなる気があんまりしない。

今日帰ってきてから地震があって、ひとりだったから本当に世界がゆらゆらして大変だった。怖かった。
それもあって今具合が悪いのかもしれない。

おなかがすいたけど、まだ食べられない。
今ものすごい勢いでひとりぼっちだから、風邪ひいたのが余計につらい。早く治したい。明日は無理にでも行って、明後日休みたい。今日治ってしまったら楽なんだけどな。

喉の痛みはだいぶマシだ。
もっとうがいをしよう。今日の夜ご飯は鶏肉のトマト煮らしいからきっとおいしいはずだ。期待しよう。昨日のポークソテーは美味しかった。

こうやって無理矢理にでもテンションを上げていかないとどうにかなってしまいそうなんだ。

早く帰ってきておねがい
ひとりがこんなにつらいのは、ふたりでいた時を体が覚えているから
だから体がこんなにしんどいのかな
帰ってきたら、元気で会いたい

あお

つかれた。本当に疲れた。
足が痛いしねむい。これからまだ活動しなければならないのはきつい。私はくるしい。いよいよ誰にも助けられないところまできてしまった。

今思うのはこのブログをはじめていてよかったと思う。
このブログがなかったらどこにも吐き出すことのなかった思いと言葉が私の中で張り詰めて、それが切れてしまったとき、わたしはなく。とても泣く。それは好きな人にも伝えられず、親にも言えず、友にも話せない。私がこんなにぐちゃぐちゃなのを知ったら、みんなどう思うかな。それでも付き合ってくれる人とだけ付き合えばいいや。でもこんなこと言ってても気にしちゃうんだよなあ。

今も文章を作るので精一杯だ。ふらふらだ。
私はふらふらだ。
人に流されやすい。ふらふら。

人に流されない人がうらやましい。
このブログをはじめたのだって、周りがやってたからだ。
私はどこまでも自分の意思がない。
でも他の意見というか、人がやってることを素直に取り入れられるっていうのもいいところだと思う。
流されやすいって言い方がよくないのかな

ブレない人になったら、楽しく楽に生きられるかな。
ブレないってほんとうに、とてもたいへん
変わらずにいることの尊さよ、おやすみなさい

あい

私は今日とんでもなくやらかしてしまった。
別れたということになっているのに、人がいるところで、軽いスキンシップでお尻をぺんぺんしてしまった。
やってしまった。どうしよう。

別れているのに、私は目が追ってしまっているし、オーラにあらわれていると思う。これは死活問題だ。
どうにかして、ある時だけは、その人のことを考えるのをやめなければならない。目の前のことに集中しなければならない。

好き合ってるという事実はある。
それなのに、話すことはおろか目を合わせることすらできない。悲しい。けれど久しぶりに会ったり話したりすると、ありがたみを感じる。愛おしさを感じる。

これは神様が気づかせてくれたのかもしれない。

これまでの私たちは、わりとオープンな付き合いだった。そのオープンな感じが、周りの人たちに迷惑だったのかもしれない。見たくない人もいるだろうから。
そして私は、その人といる時に対してあまり感謝がなかった。なんでこんなに一緒にいるんだろうとすら思っていた。
けれどそれは違ったのだ。
こうして離れて暮らしてみると、私たちが一緒にいられたことは素晴らしいことだった。一緒にいるだけでよかったのだ。

いつも失ってから気づくものが多すぎる。失ってからでは遅いのだ、失う前に気が付かないといけない。本当にしたいことは何なのか、本当に大事にするべきなのは何なのか。

私は、なにを失ったら私ではなくなるのだろうか。むずかしい。楽しく楽に生きていきたいのに、ずっとずっと悩んでいる。数学みたいに答えがでたらいいのに

もうすぐ誕生日だから、なにをあげようか決めかねている。あいするひとに、おくりもの。

のうこん

私は田舎から都会に出てきた。
私の田舎がどれくらい田舎かかというと、電車が1時間に1本だけというレベルの田舎だ。都会に出てきたら電車が何本も何両もあり、人の多さに少し辟易した。

しかし電車があるのもなかなかに便利だ。田舎では車がなければどこにもいけなかったけれど、電車がたくさんあるから車が無くても困ることはない。普通にエコだと思う。

毎日同じ電車、それも同じ車両に乗っていると、顔見知りの人が生まれてくる。いつも先頭車両に乗っていたその子たちは、私たちが降りる駅を覚えていた。私たちは隣どうしで座っていたから、私たちが降りる駅になったらその子たちは近づいてくる。私たちが降りるとその席にはその子たちが座れる。いい関係だった。私たちが隣どうしで座れたら、その子たちにとって座れる席が確定しているようなものだったのだ。

しかし私たちはもう付き合っていないから、別々の車両で乗っていっている。私はあの子たちが確実に座れなくなったことが残念だった。なんで残念だったのか考えてみると、あの子たちが座れなくなったということは、私たちも一緒に座れなくなったということに他ならないからだ。やはり自分本位なのかな、と少し反省する。

たまにあの子たちの顔をみたいと思うけれど、きっと別れたと思われている。あの人たちいなくなっちゃったね。男の人はこっちに乗ってきてるのに。

そう、私たちは別れたの。
けど好き合ってるの、内緒だよ

こん

私は食いしん坊だと思う。
(それもわりと自覚のある食いしん坊)

おいしいもの、おいしそうなもの、揚げ物を揚げる音、ぐつぐつと煮込まれている音にどうしようもなく惹かれてしまう。食べることは生きることなんだと思う。

そんな私は小学生の頃とんでもなくやらかしている。
母に連れられてデパートに行った日のことだ。
母と2人でデパートにきて、個人行動が許された。
いつもだったら2人で同じお店にいなくてはならなかったのに、今日はいいと言う。
1人でまわるデパートはまだ小学生の私にはキラキラが強すぎた。そのキラキラでやられてしまったのだと思う。

デパートによくある、量り売りのお菓子売り場を目にしたことはあるだろうか。あの、コップに好きなお菓子を好きなだけ入れて、量って売ってくれるコーナーだ。

あのコーナーを見た小学生の私は思ってしまった、
「あんなにお菓子が食べれる!」と…

今にして思えば本当にやらかしてるなあと思う。
プラスチックのケースに入ったお菓子がたくさん並んでいるコーナーからそれはそれはおいしそうなお菓子をみつけて、食べてしまったのだ。アウトである。はかりもせずにそのまま…2種類くらい食べたのち、運良く(悪く?)母が登場。
見た瞬間あまりの事に絶句、しかし私を止めに入るのは早かった。
いきなり「なにしてるの!」と小突かれた。

言い訳をするようだが、私は量り売りのお菓子をまだ見たことがなく、ルールを知らなかった。それにしても食べるのはないよなあと思う。「こら、食べちゃダメなんだぞ。」となる。

こんな感じで、私は食いしん坊である。
食べるだけではなく、作るのも好きだ。
料理をするのはとても楽しいことだ。かぼちゃプリンつくりたい….だれかかぼちゃをわけて…

食べてしまったお菓子ですが、そのあとコーナーの人にきちんとお詫びしました。本当に申し訳ないです…

すこしあかるいくろ

くろが暗い話題だったので、すこし明るい話題にしようと思う。
私には好きな人がいて、その人となら、周りから不幸せだと思われても幸せな状態になれると思う。そんな人がいる幸せを日々噛み締めて生きている。
たまに私がとち狂って、その人にひどい事をしてしまう。直したい。そんなことは私だってしたくないのだ。

そんな私たちはいつから付き合い始めたのか。
「俺たち付き合ってるんだ」はどこから始まるのだろう。
人それぞれだと思う。「付き合ってください」ないしは「付き合おっか」から始まるのだろうか。そんな事を言わなくても始まる付き合いもあるだろう。その場合はどこから付き合いが始まるのだろう。「好き」を伝えたら始まるのだろうか。お互いに好きなのに付き合いを剥奪されたら付き合いは終わってしまうのだろうか。

私はこう思った。付き合っているという状態は、当人たちではなく、周りが作り出しているものだと。
いま私が好きな人と別れろと他の誰かに言われたとする。それも速やかに別れなければ私たちに害が及ぶと。
私はまだその人が好きだし、その人も私が好きな状態だ。

しかし、私たちはその誰かに別れたと言って別れたとする。でも好きだから隠れて連絡はとるし、ご飯をたべる。絶対ばれないようにひっそりと出かける。表向きには別れたという状況ができてくる。

つまり私たちは別れたと言っても付き合っている。付き合ってると言っても別れている。グレーだ、限りなくグレーな場所にいる。周りから見たら別れている。けど私たちはずっと好き合っている。これがいい。付き合っているからデートに行くんじゃない、ご飯食べに行くんじゃない。それがその人とじゃないといやだから、行くんだ。おまえらに付き合ってるんだろとか言われてもそんなの知らない。私たちは好き合ってるんだ。だから付き合ってない。

どんな屁理屈だと嘘だと言われても構わない。
私は大切なその人と一緒にいたい。それを守るためなら嘘もつく。嘘をつかない人なんて不潔だ。守るべきものがない証拠だ。もし「生まれてからいちども嘘をついたことがない」と言った人を私たちは信用できるのだろうか。無理だろう。そんなことを言うのはひどく白々しい。



好きだ、なにものにもかえられない大切なひと
どうかそばに

くろ

友人が一斉にブログを始めたから、私も自分で考えていることをまとめたくなってブログを始めた。

私は絵に描いたようなドロドロとした人間関係に本当に疲れた。皆がみんな、人を利用して騙して売って、私は軽く人間不信というような感じになった。今はもう、そんなことは忘れたフリをして頑張ることにした。人が人を許すのは、大概そのことを忘れた時だからだ。だから一生懸命忘れたフリをしている。まだフリだけど

「因果応報」という言葉がある。私の好きな言葉だ。
良いことも悪いことも巡り巡って自分に返ってくるという意味、私は最近この言葉に従って動いている。

人に意地悪をされたとき、前までの私だったら意地悪をやりかえしていた。そりゃあやられたらやり返したい。目には目を、歯には歯をだ。
けど、今の私は「因果応報」に従って動いている。するとそれは出来ないことになる。
人に意地悪をされて、その意地悪をその人に返したら、また巡り巡って私が意地悪をされるのだ。それは後々面倒だし、そんなことに労力を使うのはもったいない。
それよりかは逆に、意地悪したやつに良いことをして、巡り巡って良いことがまた起きるほうが人生は楽しいはず。

だけどおかしい。私が耐えても、そいつにはなにも悪いことが巡ってきていない。本当におかしい。それどころかそいつには良いことだけ巡り巡ってきているような気がする。私の目がおかしいのかもしれない。それか私の知らないところで悪いことが巡ってきているのかもしれない。それではわからないから面白くない。こんな考えをしてるからいけないのだろうか、考えてるだけで誰にも迷惑はかけていないのに。
私は楽しく楽に生きていきたい。楽に生きるのは難しい。私は悶々としている。一体どうしたらいいのか